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みんな、ありがとう 普段着お遍路歩きの記

                     2004年春編
    番外の回

最終回なのにまだ続きを書くのは「遠くまでゆく日」の定番になってしまった。
いつもは「最終回の続きの話」などと、人を食った書き方をするが、今回は続きではない。
私はもう遍路ではないからだ。
だがどうしても書きたいエピソードがあって番外として書くことにする。

そして、今回のエピソードは、実生活ではもっとも信頼をおける一部の友人にしか話していなかった内容である。なぜなら絵に描いたような出会いが含まれており、第三者が聞いたら、話を盛り上げようと私がウソをついてるかのごとくに思えるだろうと心配したからだ。

でも、すべて本当のことである。
他人の宝物を大切にすることほど難しいことはない。それでも私はこのHPで私の宝のような思い出を記す。



2004年5月4日。


高知県中村駅のバス停にいる。まだ4時前だが誰もいない。

でも淋しいとか、何かをしたいとか言う欲望はわいてこない。
リュックは駅のコインロッカーに預けた。
この杖だって、ロッカーに入らなかっただけであり、今は無用の長物である。

今の俺は遍路ではない。大阪に帰れば仕事が待っている。
俺の魂を、そして最近では命をも削る仕事が待っている。
いつまでも「お遍路ピースケ」のままでいたいのが本音だが、

さっき遍路看板の前で遍路道との別れの写真を撮り、自分はお遍路さんではないと区切りをつけた。


いやだなあ、このなんともいえないからっぽの状態。旅人でない私はもはや形骸に過ぎない。

形骸なのに疲れを感じている。私は駅のそばにあった観光案内センターに足を向けた。
温泉がないか聞いてみた。
幸い、すぐそばに「サンリバー四万十」」という保養所があるらしい。
たった400円で実にいいお湯だった。
安くて快適なお湯に浸かりながら考えた。
最初の目的だった「いろんな人に出会おう」という目標はどうなったのだろう?
一年でもっとも四国に遍路が集まるGW、それなのに・・・・・・。




風呂から上がって食事の必要性を感じた。胸がいっぱいではあったが、大阪に着くのは明日の早朝だ。
さすがに何かを腹に入れないともつまい。

旅人をやめた私だが、つい旅を連想する食事を頼んでしまった。
「鮎の塩焼き定食」
ほんのひとかけらだけ、旅人の心境が残っていたようだ。



おいしいはずの料理は私にとっては砂をかんでいるも同然のものだった。





「君、君はバイクか?」
突然隣に座っていたおじいさんに話しかけられた。頭がはげている。
「いえ、お遍路です。」
「何?気に入った!その若さでお遍路か?なら、バイクで回ってるのか?」
「いいえ、歩いて回ってます。」
「おおお・・・・・。本当にそうか?間違いないな?」
「あ・・・・・・はい・・・・・。はい・・・?」
「そうか・・・。気に入った、本当に気に入ったぞ。おい、ボーイさん、この青年にビールを持ってきたまえ。」
「はあ・・?」
年のころは80過ぎだろう。遍路であることを自ら捨てた身にとって、こんな風に話しかけられることへは違和感が正直あった。
でも、おじいさんはなんだかとてもうれしそうだ。お話はしてもいいだろうな。

「なんでまわりよるんだ?」
「理由は特にないんですけどね。」言ってから「しまった」と思った。
こういう虚無的な答えを老人は嫌うものだ。


「本当か!気に入った!もっとのみなさい!
おじいさんはビールをついでくれた。

ほにゃ〜?話がどんどんこちらの予期しない方向に動いていく。


そのときふと心に、あの「十五才 学校W」の丹波哲郎を思い出した。屋久島で出会った少年に世話をされた、大戦で生き残ったシベリア帰りの老人である。あの時の大介少年もこんな心境だったのだろうか?


「すまんが、納札をくれんか?」
「いいですよ。」


渡した瞬間、おじいさんが固まってしまった・・・。死んじゃったのかな?



「なにい?お前はわしの弟と同じ名前じゃ。しかもあいつも大阪に住んでる!」

「本当ですか?」このとき私は老人が寂しさのあまり話をあわせようとしているのかと思って、少し突っ込んでみた。

「大阪のどこですか。」
「堺市の初芝じゃ。」

・・・・・・・・・・・・・うわ、間違いなく大阪の地名や。うたがってごめんなさい。


おじいさんとは1時間程も話した。特攻隊の生き残りだそうだ。なんだか絵に書いたような話だった。でも、ウソではなかった。「十五才」の映画のままじゃないか。


それにおじいさんは若いころ私と同じ職業についていた。

「なに?お前もその仕事をしているのか。頼もしいのう。わしの分も頼むぞ。」こういわれても、もう疑う気持ちも、大げさだなあという猜疑心も消えていた。心からこう言えた。
「うん。おじいさんの分も、仕事をがんばりますよ。」




バスの時刻が迫っていた。
「おじいさん、ありがとう。僕行きます。」
「そうか、時間をとってすまんかった。だが最後に頼みを聞いてくれんか?」
「え?」
「お前のその首から下がってるカメラで写真を一緒に撮ってくれんか。」
「いいですよ。」
高知県香美郡のY=Gさんとの写真


「引き止めてすまんかった。だが、君みたいな若い子と話せてうれしかったぞ。80の爺さんの分まで最後まで歩くんだぞ。」
握手を求めてくれた。私よりもずっと大きく分厚い手のひらだった。すごいな・・・。そう思い、もう一度振り返ったが、ウェイターの影に入りおじいさんの姿は見えなかった。


たった1時間だ。1時間しか出会ってないのに、それに俺みたいなつまらん人間と握手をしてくれるのか、これも旅の出会いなのだろうか?



違う気がする。




人間ってもともとこんな風にやわらかくて優しい存在なんだ。
それが、いろんな余分なものを身につけていくうち、自分のことだけを考え、冷たい人になっていくんだ。

そうおもった。じゃあ、俺はどうなんだろう?冷たい人間になってるのかな?



いや、そうならないために、俺は歩いてるのかもしれない。人を求めているのかもしれない。



人が旅に出るのは、優しさを失わないためなのかも知れない。

これが今回の旅で唯一学んだことだった。そしてこの旅最後の思いだった。
駅についた瞬間、私は旅人でなくなった。

旅が終わった。







中村駅はひっそりしていた。辺りの店はみんなシャッターをおろしている。それなりに大きな駅と思ったがそれでも地方ではあった。



バスは定刻どおりやってきた。窓際の席だった。
道に看板が見える。
見覚えのある地名がいっぱい出てくる。
俺はこれまでこの道を脚を引きずってあるいたんやなあ。
またや・・・。また泣きそうになってる。泣いたらあかんぞ。
歩いてるときは、正直感動なんてしていなかったのに、今、こうしてバスの中から外を見ているだけで、体が熱くなってしまう。




ずっとずっと、人恋しい思いで歩いていた。
でも、俺の周りにはたくさんの人がいたではないか。
大阪から俺を四国に運んでくれたのは誰か?
すれ違いざまに挨拶をしてくれた人がいたではないか。その人に俺は元気をもらったではないか。
俺の食事を作ってくれた人がいた。
俺の歩く道を作ってくれた人がいた。
そして、俺を遍路に導いてくれた人がいた。

俺の周りを取り巻く全ての人への感謝が、皮肉なことに帰路についたとたん湧いてきた。でも、もう遅かった・・・・・・。
宝物は失ったときに、より美しく光りだす。


でもそれでもいい。


今出会いが少なかったとしても、出会いに気付かなかったとしても、数ヵ月後に俺はこの地に再び立つ。そのとき、また新たな出会いがあるに違いないのだ。


そして高知のおじいさん、僕に声をかけてくれてありがとう。
なにより、今はADのかんちゃん、もしよければこれからずっと会えなくても、僕の友だちでいてください。

そして。

そして。


もしかしたら、気付くのが遅かったかもしれないけど、

私は孤独ではなかった。

なぜなら歩いているときにも遠くから見つめてくれていた人がいたからだ。

このHPの遍路日記をこれまで読んでくれた皆さん、
どうもありがとう。

読んでくれる人がいる限り、私は最後まで歩きとおします。

私の宝物を読んでくれたあなたのために、歩きます。


「みんな、ありがとう 普段着お遍路歩きの記 2004年春編」   終

    

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